子供時代を過ごした家を失うこと

1日から2日にかけて、愛知県にある自分の生まれ育った家に帰った。9月に親から売却の話を聞き、その月末にも一泊で訪ねて、何か救出する物が無いかを見に行ったのだが(写真や、子供の頃よく読んだマンガなどを救出した)、今回はオーストリアに住んでいる姉が引き渡し(12月6日)のために帰国するのに合わせて、もう一度出かけることにした。9月に行き、母親に見送ってもらって家を出たので、必ずしも行く必要は無かったのだが、姉が来るなら、そして行ける状況にあり迷っているなら、もう一度行っておかないと後悔するかも知れないと思い、行くことにした。9月に行った際に、家の写真も一杯撮っていたのだが、唯一忘れた物といえば、台所と居間を隔てる壁の柱、電話器の横の柱に刻まれた背比べの跡を取り忘れたことも、もう一度行く後押しになった。

その家は、生まれてから高校卒業までを過ごした家で、小学生までの6年間、小学生の6年間、中学と高校の6年間を過ごした。家を出てから25年が経つ。

その家の記憶は、今の季節なら、台所に置かれたストーブの前で、いつまでも足の裏を温めて、姉たちと場所の取り合いをした。朝はラジオでがついており、ラジオ体操に始まり、食事をしながらニュースを聞き、投稿の準備を終えて「みんなのうた」を聞いてから家を出た。家の前の道を、友達の家を2軒まわりながら集合場所のお宮さんに行き、そこからは並んで小学校まで。集合場所は舞台もある古い神社で、そのうち建て替えられた。通学路のところどころに立つ大きな木は、幹に目のような模様のあるものもあり、また各家の裏口や、家と家を隔てる細い道というより垣根を覗きながら歩いた。

夏休みなら、母親の言いつけ通り10時までに宿題を済ませ、それ以降は小学校のプールに行ったり、家で過ごすなら肩に濡れタオルを掛けて、少しでも涼しい場所で昼寝をして暑さをやり過ごした。子供心には昼寝などしたくなかったが、親には勧められた。クーラーなど無かった。この夏の暑さは、10年前に2歳前の子供たちを連れて泊まったときに、こんなにも暑かったものかと驚かされた。

小学校のころに、玄関の左の四畳半の部屋を自室として使えるようになった。勉強机と、棚と、布団も床に置いていた。くすんだ赤っぽい絨毯の毛を撫でつけたり逆立てたりして絵を描いたりした。誕生日にラジコンを買ってもらいバッテリーの熱で煙りが出たり、顕微鏡のカバーグラスが絨毯の上で割れて足の裏を切ったり、カッターナイフで指を切って焦ったり、それらは親には内緒にしていたり、あの頃のいろんな秘密が詰まった小さな部屋だ。

母親の誕生日に、柿のヘタの富士山のようなイボのようなものをハート型の紙に並べて貼り付けてプレゼントしようとした。誕生日の賞状も作ったが、何かのことで怒られて、逆上して賞状を折って捨ててしまったことがある。後で母親が拾ってくれたと記憶している。

春は、中学か高校かの春休みに、日だまりの白いカーペットの上で竹内まりやを聞きながらゴロゴロしてマンガを読んでいた時間が思い出される。竹内まりやは姉の部屋から聞こえてきて気に入ったのか、ガンダムの映画を見に行って映画「ステーション」のPVを見て「駅」という歌を知ったのか、とにかく好きだった。高一のとき、「好きな歌手」というアンケートに竹内まりやと書くと意外がられた。そのころの自室は2階に増築した6~7畳のフローリングの部屋で、自分の部屋にだけプラモデルの塗料のにおいを排出する換気扇を付けてくれた。壁紙をじぶんで選ぶ経験もさせてもらい、悩んだ末に小さなミツウロコの模様の入ったものが男らしいかと思ったが、実際には水玉模様のように見え、選択の重要性を思い知った。

その部屋でティッシュペーパーに火を付けたことがあって、予期せず急激にティッシュ全体に火が広がり、あわててベランダに放り出した記憶がある。火と言えば、なぜか一階の応接間で寝ていた時期があり、そこで朝目覚めて石油ストーブに火を付けて、また温まるまで布団にくるまっていたら、いつのまにがストーブの上から火が立ち上っていたことがあった。あわてて消して、もちろん火事にもならなかったのだが、今思い出すと、天井にも焦げたような後は無く、どれほど火が立ち上がっていたのか、あるいは夢だったのか、親にも内緒にしていた話なので確認することもできない。

 幼稚園の頃はガンダムが好きで、入院時にガンダムの超合金のおもちゃを買ってもらい、それまで痛かったお腹が直るなどした。親戚のお兄ちゃんや近所の上級生の家にはプラモデルの箱が山積みになっていて羨ましかった。小学校に入るとキン肉マンが人気だった。母親はなぜか、友達との会話について行けないことを心配してか、キン肉マンのテレビを見たらとか、ビックリマンチョコが流行った頃にはシールを集めてみたらとか、提案してくれたが、僕は人に合わせて何かを始めたり、コレクションにハマることがイヤだったので、それらを始めることは無かった。ただ、ガチャガチャのSDガンダムはかなりたくさん持っていた。キン消しもか。僕の場合はそれにプラモデル用の塗料を塗っていた。キン消しはガチャガチャで出てくる小さいのは形が変(腕が大きいなど)で好きでは無かったので、10cmくらいある大きいのが気に入っていた。

小2のころ(違うかも知れない)にZガンダムが始まり、ファミコンが出たりした。初めはファミコンを買ってもらえなかったので、2軒ほどの友達の家でやらせてもらっていたのだが、長時間やった日の夜か、布団に入った後もゲームの音が聞こえ、一階で家族が笑っている声が聞こえ、てっきり家族がゲームで遊んでいると思い、一階にのぞきに行ったことがある。そんなことをしていたためか、4年生のころから視力が急激に下がった。

小学生のころは大好きな友達が居て、絵や工作、作文でも、人とは違う視点で作品を作る人で、3年生ごろ出会い、6年生までつきまとうように遊んでいた。町の未来像を描くときには、マンションのパース図のように人をシルエットで表し、スケール感が違った(僕は違うクラスだった彼の制作中の絵を見て、その方法を盗み完成させた絵は、今も町の川沿いに陶板となって残っている)。図工でゴミ箱を作るときには、僕が精々蝶番構造の蓋付きゴミ箱だったのに対し、彼は脚でレバーを踏んで蓋を開けられるゴミ箱だった。作文では自分がこれまで何歩歩き、トータルで何キロ進んだことになり、それが地球何週分か、などと計算をしていた。どれも衝撃的だった。

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大学入学で家を出てからも、何回かこの家に帰ることはあった。1年生の秋に高校3年時から付き合っていた子と別れ、傷心して年末に帰ったこともあった。大学3年のころに母の体調が悪くなり、父は退職して故郷の山梨に家を建て、それ以来山梨に帰ることが多くなった。山梨は僕も子供の頃から夏休みになると家族で訪ね、小学校低学年のうちは施設の祖母(父は養子なので育ての母)のお見舞いに行き、やがて亡くなり、集落で昔ながらのお葬式をした。山梨の家も建て変わり、やはり前の家に思い出があるが、それはまた別の機会に書こう。とにかく実家が愛知から山梨に移り、愛知の家にはあまり寄らなくなってしまった。

10年前の9月に、2歳になる前の子供を連れて、オーストリアの姉のところに行った帰りに寄ったときは、残暑の厳しさと、家の狭さと古さと、そして町の小ささに驚いた。子供の頃の印象とかなり違う。そして、周囲の家も建て変わり、古い家と新しい家やアパートが建ち、それはまるで僕の記憶の中にある町を蝕んでいるようで、もうここは僕のふるさとでは無いのだ、変わるのは仕方無いことで、昔の町並みは記憶の中でしか維持できないのだ、と感じたものだ。建て変わった他の家と同じように、この家もいつまでも維持させることはできないとも感じた。

5年ほど前のお正月に、一人で18切符を使い、山口に一泊、愛知に一泊、岡山に一泊する旅行をしたことがあった。一人で愛知の家に泊まるのは寒いしさみしいと思い、名古屋にホテルを取ったので、たまたま来た父親とは、家でおせちをつまんでお酒を飲んで、その後はホテルに戻ってしまった。家に泊まれば良かったかと後悔している。

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今回は2ヶ月ぶりの訪問で、前回ほどの感傷は無い。前回は中部国際空港からの切符の買い方も分からなかったが、今回はスムーズにミュースカイ。電車の窓から、子供の頃からある交通安全のトタンのポスターが見えた。車が牙をむいて、自転車の男の子にぶつかりそうになっている絵だ。最寄り駅の様子もずいぶん変わったが、家が無くなればこの駅にも来ることが無いのかもしれないと思って写真を撮った。床のタイル、階段と自転車用のスロープ、ながい地下通路、その壁の展示、おもちゃ屋さんのあった建物。銀行も名前が変わった。よく言った大型スーパーも内装が変わっただけで無く、まるごと建て変わってしまった。

家までの道のりでも、半分ほどの建物は建て変わっているか、あるいはテナントが変わっている。見覚えの無い景色の中に、あの頃もあったとうっすら覚えている垣根や石垣、多分変わっていないドブ川が混ざっている。派手なパチンコ屋の建物は中身がドラッグストアに変わり、やはり、子供の頃よりすべての道のりが短く感じる。この十字路からあの十字路までは、こんなに近かったのかと驚く。父は毎日駅まで歩いて通勤していたが、なぜ車や自転車にしないのか不思議だった。この距離なら健康のためにも歩くだろうなと今なら思う。いくつかの幼なじみの家の前を通る。すべて昔と同じ表札だった。

今回、改めて、これで最後になる家に入ってみて、まずその小ささに違和感を覚えると共に、胸が締め付けられるようだった。高校生まで住んでいたから、その頃から身長が伸びたわけでは無いのに、なぜ小さく感じるのか。やはり子供の頃、小学生のころの家のサイズ感が身に染みついているのか。届かなかった鴨居、遙か頭上の天井、手を広げても届かない廊下の左右の壁、それらがすべて、今では迫ってくるように近い。おかしい。狭いトイレや洗面所・・・。

家を構成する様々な素材も、子供の頃に確かにそれを見ていたという記憶を呼び起こす。玄関の石材、聚楽壁、柱の木目、床材、引き戸のレール、木製の窓枠と貫通させるタイプの鍵、ガラスの模様、様々な形の照明、ゼンマイ式の掛け時計、電気のスイッチ。

着いた日の昼食から翌日の昼食まで、姉が作ってくれた。ヨーロッパから持ってきたワインやチーズ、そして実家らしい母譲りの家庭料理。食事の時にいろいろ話、あとは黙々と荷物を確認した。子供の頃は届かなかった棚も覗いてみると、見覚えのあるもの、無い物、ハレの日の食器類、使われなかった引き出物、いつかは使うと思って捨てられなかったものたちがそのままそこにある。2ヶ月前に確認した自分の段ボールもまた覗いた。「モクモク村のけんちゃん」という、ブリタニカの紙芝居が上の姉の部屋に出ていて、記憶が呼び起こされた。怖いアリ、やさしい木、怖い木、しゃべる岩、魔法使い、環境汚染、、、忘れていたけど、かなり強く僕に影響を与えているような気がする。前回は時間不足とバッテリー不足で撮りきれなかったアルバムの写真もできる限り撮った。

記憶を上書きしたくなかったが、家のサイズ感も今回の滞在で正しく認識されるようになってしまった。家を出るころには、違和感も感じなくなってしまった。家の外は、なおさら記憶があいまいだが、2度ほど散歩して、あの頃からある家、アパート、空き地などを見つけることができた。

家を出る日の昼過ぎに、姉が川まで行こうと誘ってくれた。川辺に、僕が小学生のころに書いた未来の町の絵が、陶板になってはめ込まれているのを見に行こうと言う。僕はその絵は岩倉駅前に設置されていたと勘違いして、前回の滞在時に通ってみたのだが見つからなくて、撤去されたのだと思っていたが、そういえば川沿いに設置され、昔駅前にあった「い」の字のモニュメントを描き込んでいたために駅前に設置されていると思い込んでいることに気づかされた。線路を渡り、我が家の子供みんなが通った算盤塾を通り、親が焼き肉屋を間違えて落ち合えなかった話をしたりして、姉もうろ覚えだった陶板を探し当て、鯉のぼり屋の前を通り、駅前の本ややスーパーの話をして、家に戻ってきた。そして3時半に姉に見送ってもらい家を出た。

家にありがとうと言うのも変だが、何なんだろうか、この感じは。家を失って自分が変わるわけでも無い、過去が変わるわけでも無い、未来にも大きな影響を与えない。何が消えるのかもよく分からない。でも確かに、過ごした家が消える。それだけなのに、何かが胸を締め付ける。

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電話番号も消滅するのだ、と思い、12月6日、10:30に最後の電話をした。家には姉と父がいて、姉とだけ話した。「いろいろなことがあった」「最後をよろしく」と、ちょっと沈黙の多い会話をして切った。