2019の薪

怒濤の暖冬だった2019から2020にかけての冬は、1月でも一日薪ストーブを使わない日が2日ほどあったり、2月でも朝使わない日があったり。そりゃ最低気温が15度だったら、朝でも室温20度近い。

 

そんなわけで薪の減り方は、2月末現在で2棚半(1棚は180cm四方)。

今年の薪調達は、秋に職場隣での街路樹剪定(根元から切り倒し)を業者に頼んでもらい受ける(家までクレーン付きトラックで運んでくれた)。丸太ですごい量だったけど、これでも1棚分。ねじくれた丸太は見た目の割に、薪にした後の最終的な積み上がり量が少ないと分かった。そしてナンキンハゼは乾くと軽くて火持ちが悪そう。切ったら水がボタボタ垂れたと業者さんが言っていたが、切り立ては柔らかく割りにくいので、ちょっと乾燥させてからが良い感じに割れた。

 

一方、職場の細々とした枝の剪定や、森林ボランティアでもらったヒノキ丸太などで、1棚〜1棚半。近くの下水処理場での雑木伐採でも声を掛けたけど、時間の関係でもらえなかった(代わりに別の機会に運んでくれると、以前もお願いしたことのある元請け業者の社長さんが言ってくれたので、それに期待している)。

残り湯

小2男子に、家であまり使わない「残り湯」という言葉が通じないかと思って「お風呂の残りの湯」と言ったら、「のこりゆでしょ」と言われた。なんで知っているのか聞いたら「コロコロコミックで出てきた。」という。『味がしないな』『残り湯だからな』という会話が為されていたらしい。

 

マンガの教育効果はスバラシイ。語彙が増えるだけで無く、残り湯は飲み物では無いということまで、面白おかしく教えてくれる。

子供時代を過ごした家を失うこと

1日から2日にかけて、愛知県にある自分の生まれ育った家に帰った。9月に親から売却の話を聞き、その月末にも一泊で訪ねて、何か救出する物が無いかを見に行ったのだが(写真や、子供の頃よく読んだマンガなどを救出した)、今回はオーストリアに住んでいる姉が引き渡し(12月6日)のために帰国するのに合わせて、もう一度出かけることにした。9月に行き、母親に見送ってもらって家を出たので、必ずしも行く必要は無かったのだが、姉が来るなら、そして行ける状況にあり迷っているなら、もう一度行っておかないと後悔するかも知れないと思い、行くことにした。9月に行った際に、家の写真も一杯撮っていたのだが、唯一忘れた物といえば、台所と居間を隔てる壁の柱、電話器の横の柱に刻まれた背比べの跡を取り忘れたことも、もう一度行く後押しになった。

その家は、生まれてから高校卒業までを過ごした家で、小学生までの6年間、小学生の6年間、中学と高校の6年間を過ごした。家を出てから25年が経つ。

その家の記憶は、今の季節なら、台所に置かれたストーブの前で、いつまでも足の裏を温めて、姉たちと場所の取り合いをした。朝はラジオでがついており、ラジオ体操に始まり、食事をしながらニュースを聞き、投稿の準備を終えて「みんなのうた」を聞いてから家を出た。家の前の道を、友達の家を2軒まわりながら集合場所のお宮さんに行き、そこからは並んで小学校まで。集合場所は舞台もある古い神社で、そのうち建て替えられた。通学路のところどころに立つ大きな木は、幹に目のような模様のあるものもあり、また各家の裏口や、家と家を隔てる細い道というより垣根を覗きながら歩いた。

夏休みなら、母親の言いつけ通り10時までに宿題を済ませ、それ以降は小学校のプールに行ったり、家で過ごすなら肩に濡れタオルを掛けて、少しでも涼しい場所で昼寝をして暑さをやり過ごした。子供心には昼寝などしたくなかったが、親には勧められた。クーラーなど無かった。この夏の暑さは、10年前に2歳前の子供たちを連れて泊まったときに、こんなにも暑かったものかと驚かされた。

小学校のころに、玄関の左の四畳半の部屋を自室として使えるようになった。勉強机と、棚と、布団も床に置いていた。くすんだ赤っぽい絨毯の毛を撫でつけたり逆立てたりして絵を描いたりした。誕生日にラジコンを買ってもらいバッテリーの熱で煙りが出たり、顕微鏡のカバーグラスが絨毯の上で割れて足の裏を切ったり、カッターナイフで指を切って焦ったり、それらは親には内緒にしていたり、あの頃のいろんな秘密が詰まった小さな部屋だ。

母親の誕生日に、柿のヘタの富士山のようなイボのようなものをハート型の紙に並べて貼り付けてプレゼントしようとした。誕生日の賞状も作ったが、何かのことで怒られて、逆上して賞状を折って捨ててしまったことがある。後で母親が拾ってくれたと記憶している。

春は、中学か高校かの春休みに、日だまりの白いカーペットの上で竹内まりやを聞きながらゴロゴロしてマンガを読んでいた時間が思い出される。竹内まりやは姉の部屋から聞こえてきて気に入ったのか、ガンダムの映画を見に行って映画「ステーション」のPVを見て「駅」という歌を知ったのか、とにかく好きだった。高一のとき、「好きな歌手」というアンケートに竹内まりやと書くと意外がられた。そのころの自室は2階に増築した6~7畳のフローリングの部屋で、自分の部屋にだけプラモデルの塗料のにおいを排出する換気扇を付けてくれた。壁紙をじぶんで選ぶ経験もさせてもらい、悩んだ末に小さなミツウロコの模様の入ったものが男らしいかと思ったが、実際には水玉模様のように見え、選択の重要性を思い知った。

その部屋でティッシュペーパーに火を付けたことがあって、予期せず急激にティッシュ全体に火が広がり、あわててベランダに放り出した記憶がある。火と言えば、なぜか一階の応接間で寝ていた時期があり、そこで朝目覚めて石油ストーブに火を付けて、また温まるまで布団にくるまっていたら、いつのまにがストーブの上から火が立ち上っていたことがあった。あわてて消して、もちろん火事にもならなかったのだが、今思い出すと、天井にも焦げたような後は無く、どれほど火が立ち上がっていたのか、あるいは夢だったのか、親にも内緒にしていた話なので確認することもできない。

 幼稚園の頃はガンダムが好きで、入院時にガンダムの超合金のおもちゃを買ってもらい、それまで痛かったお腹が直るなどした。親戚のお兄ちゃんや近所の上級生の家にはプラモデルの箱が山積みになっていて羨ましかった。小学校に入るとキン肉マンが人気だった。母親はなぜか、友達との会話について行けないことを心配してか、キン肉マンのテレビを見たらとか、ビックリマンチョコが流行った頃にはシールを集めてみたらとか、提案してくれたが、僕は人に合わせて何かを始めたり、コレクションにハマることがイヤだったので、それらを始めることは無かった。ただ、ガチャガチャのSDガンダムはかなりたくさん持っていた。キン消しもか。僕の場合はそれにプラモデル用の塗料を塗っていた。キン消しはガチャガチャで出てくる小さいのは形が変(腕が大きいなど)で好きでは無かったので、10cmくらいある大きいのが気に入っていた。

小2のころ(違うかも知れない)にZガンダムが始まり、ファミコンが出たりした。初めはファミコンを買ってもらえなかったので、2軒ほどの友達の家でやらせてもらっていたのだが、長時間やった日の夜か、布団に入った後もゲームの音が聞こえ、一階で家族が笑っている声が聞こえ、てっきり家族がゲームで遊んでいると思い、一階にのぞきに行ったことがある。そんなことをしていたためか、4年生のころから視力が急激に下がった。

小学生のころは大好きな友達が居て、絵や工作、作文でも、人とは違う視点で作品を作る人で、3年生ごろ出会い、6年生までつきまとうように遊んでいた。町の未来像を描くときには、マンションのパース図のように人をシルエットで表し、スケール感が違った(僕は違うクラスだった彼の制作中の絵を見て、その方法を盗み完成させた絵は、今も町の川沿いに陶板となって残っている)。図工でゴミ箱を作るときには、僕が精々蝶番構造の蓋付きゴミ箱だったのに対し、彼は脚でレバーを踏んで蓋を開けられるゴミ箱だった。作文では自分がこれまで何歩歩き、トータルで何キロ進んだことになり、それが地球何週分か、などと計算をしていた。どれも衝撃的だった。

・・・

大学入学で家を出てからも、何回かこの家に帰ることはあった。1年生の秋に高校3年時から付き合っていた子と別れ、傷心して年末に帰ったこともあった。大学3年のころに母の体調が悪くなり、父は退職して故郷の山梨に家を建て、それ以来山梨に帰ることが多くなった。山梨は僕も子供の頃から夏休みになると家族で訪ね、小学校低学年のうちは施設の祖母(父は養子なので育ての母)のお見舞いに行き、やがて亡くなり、集落で昔ながらのお葬式をした。山梨の家も建て変わり、やはり前の家に思い出があるが、それはまた別の機会に書こう。とにかく実家が愛知から山梨に移り、愛知の家にはあまり寄らなくなってしまった。

10年前の9月に、2歳になる前の子供を連れて、オーストリアの姉のところに行った帰りに寄ったときは、残暑の厳しさと、家の狭さと古さと、そして町の小ささに驚いた。子供の頃の印象とかなり違う。そして、周囲の家も建て変わり、古い家と新しい家やアパートが建ち、それはまるで僕の記憶の中にある町を蝕んでいるようで、もうここは僕のふるさとでは無いのだ、変わるのは仕方無いことで、昔の町並みは記憶の中でしか維持できないのだ、と感じたものだ。建て変わった他の家と同じように、この家もいつまでも維持させることはできないとも感じた。

5年ほど前のお正月に、一人で18切符を使い、山口に一泊、愛知に一泊、岡山に一泊する旅行をしたことがあった。一人で愛知の家に泊まるのは寒いしさみしいと思い、名古屋にホテルを取ったので、たまたま来た父親とは、家でおせちをつまんでお酒を飲んで、その後はホテルに戻ってしまった。家に泊まれば良かったかと後悔している。

・・・

今回は2ヶ月ぶりの訪問で、前回ほどの感傷は無い。前回は中部国際空港からの切符の買い方も分からなかったが、今回はスムーズにミュースカイ。電車の窓から、子供の頃からある交通安全のトタンのポスターが見えた。車が牙をむいて、自転車の男の子にぶつかりそうになっている絵だ。最寄り駅の様子もずいぶん変わったが、家が無くなればこの駅にも来ることが無いのかもしれないと思って写真を撮った。床のタイル、階段と自転車用のスロープ、ながい地下通路、その壁の展示、おもちゃ屋さんのあった建物。銀行も名前が変わった。よく言った大型スーパーも内装が変わっただけで無く、まるごと建て変わってしまった。

家までの道のりでも、半分ほどの建物は建て変わっているか、あるいはテナントが変わっている。見覚えの無い景色の中に、あの頃もあったとうっすら覚えている垣根や石垣、多分変わっていないドブ川が混ざっている。派手なパチンコ屋の建物は中身がドラッグストアに変わり、やはり、子供の頃よりすべての道のりが短く感じる。この十字路からあの十字路までは、こんなに近かったのかと驚く。父は毎日駅まで歩いて通勤していたが、なぜ車や自転車にしないのか不思議だった。この距離なら健康のためにも歩くだろうなと今なら思う。いくつかの幼なじみの家の前を通る。すべて昔と同じ表札だった。

今回、改めて、これで最後になる家に入ってみて、まずその小ささに違和感を覚えると共に、胸が締め付けられるようだった。高校生まで住んでいたから、その頃から身長が伸びたわけでは無いのに、なぜ小さく感じるのか。やはり子供の頃、小学生のころの家のサイズ感が身に染みついているのか。届かなかった鴨居、遙か頭上の天井、手を広げても届かない廊下の左右の壁、それらがすべて、今では迫ってくるように近い。おかしい。狭いトイレや洗面所・・・。

家を構成する様々な素材も、子供の頃に確かにそれを見ていたという記憶を呼び起こす。玄関の石材、聚楽壁、柱の木目、床材、引き戸のレール、木製の窓枠と貫通させるタイプの鍵、ガラスの模様、様々な形の照明、ゼンマイ式の掛け時計、電気のスイッチ。

着いた日の昼食から翌日の昼食まで、姉が作ってくれた。ヨーロッパから持ってきたワインやチーズ、そして実家らしい母譲りの家庭料理。食事の時にいろいろ話、あとは黙々と荷物を確認した。子供の頃は届かなかった棚も覗いてみると、見覚えのあるもの、無い物、ハレの日の食器類、使われなかった引き出物、いつかは使うと思って捨てられなかったものたちがそのままそこにある。2ヶ月前に確認した自分の段ボールもまた覗いた。「モクモク村のけんちゃん」という、ブリタニカの紙芝居が上の姉の部屋に出ていて、記憶が呼び起こされた。怖いアリ、やさしい木、怖い木、しゃべる岩、魔法使い、環境汚染、、、忘れていたけど、かなり強く僕に影響を与えているような気がする。前回は時間不足とバッテリー不足で撮りきれなかったアルバムの写真もできる限り撮った。

記憶を上書きしたくなかったが、家のサイズ感も今回の滞在で正しく認識されるようになってしまった。家を出るころには、違和感も感じなくなってしまった。家の外は、なおさら記憶があいまいだが、2度ほど散歩して、あの頃からある家、アパート、空き地などを見つけることができた。

家を出る日の昼過ぎに、姉が川まで行こうと誘ってくれた。川辺に、僕が小学生のころに書いた未来の町の絵が、陶板になってはめ込まれているのを見に行こうと言う。僕はその絵は岩倉駅前に設置されていたと勘違いして、前回の滞在時に通ってみたのだが見つからなくて、撤去されたのだと思っていたが、そういえば川沿いに設置され、昔駅前にあった「い」の字のモニュメントを描き込んでいたために駅前に設置されていると思い込んでいることに気づかされた。線路を渡り、我が家の子供みんなが通った算盤塾を通り、親が焼き肉屋を間違えて落ち合えなかった話をしたりして、姉もうろ覚えだった陶板を探し当て、鯉のぼり屋の前を通り、駅前の本ややスーパーの話をして、家に戻ってきた。そして3時半に姉に見送ってもらい家を出た。

家にありがとうと言うのも変だが、何なんだろうか、この感じは。家を失って自分が変わるわけでも無い、過去が変わるわけでも無い、未来にも大きな影響を与えない。何が消えるのかもよく分からない。でも確かに、過ごした家が消える。それだけなのに、何かが胸を締め付ける。

・・・・

電話番号も消滅するのだ、と思い、12月6日、10:30に最後の電話をした。家には姉と父がいて、姉とだけ話した。「いろいろなことがあった」「最後をよろしく」と、ちょっと沈黙の多い会話をして切った。

2019クリスマス

デスレックス、11月前半は4,000円台だったのに、11月末には5,000円台では買えなくなっている。サンタさん頑張って!

ZOIDS ゾイドワイルド ZW12 デスレックス

ZOIDS ゾイドワイルド ZW12 デスレックス

  • 発売日: 2018/12/08
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

 

 

 

小学生でも好きな絵本

小2男子、小6女子、どちらも好きな絵本。なぜ?

「メアリーアリス いまなんじ?」

メアリー・アリス いまなんじ?

メアリー・アリス いまなんじ?

  • 作者: ジェフリーアレン,ジェームズマーシャル,Jeffrey Allen,James Marshall,小沢正
  • 出版社/メーカー: 童話館出版
  • 発売日: 1995/02
  • メディア: 大型本
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いろんな性格の動物たちが出てくるところ、メアリーアリスの不安と安心、簡単そうで難しい仕事があるということ、・・・そういうところが好きなのか?

2019 立山登山

今年の旅行は、小2の息子と立山登山をすることにした。2年前に家族で長野側から黒部ダムを通って室堂まで来たときは、登山の用意も持ってきていたが濃霧のためバスターミナルから数歩出るのみで帰った。今回は、天気の安定する梅雨明け直後の8月上旬に4泊5日の旅程を組み、天気待ちをしてでも登山する、という意気込み。小6の娘たちはバレエの発表会があるため留守番。

息子にとっては初めての登山だが、僕(42歳)にとっても20年ぶりに近い登山。最後に登ったのは、剱・立山ではなく・・・、鳳凰三山か・・・と記憶にすら無い。体力、道具、チームワークのどれも不安だが、「不安要素を把握している」という一点を味方にして無事な山行を目指す!

6月に飛行機の予約をした今回の登山だが、体力作りや道具の準備は7月から行う。自分の登山靴、レインウェアはある。まず息子の靴はスポーツデポやヒマラヤの安い靴でガマンしてもらうことにした。かっこいいのはなぜか高く、「青が良い」と言うので、ここでやる気を削いでは登ることは無理という判断により、最安ではない、4,000円ほどのを購入(この後何回使う?)。その登山靴を履いて近所の「地獄の階段」と異名を持つ200段近い階段を一度だけ登ったが、意外と弱音も吐かず、「これは本番もいけるかも」と期待させる。

レインウェアは天候を見計らって入山するため安いビニール製のポンチョタイプ。そもそも子供用にゴアテックスのセパレートなど無いから迷わなくて済んだ。

山での宿泊は初登山なら山小屋が良いのかも知れない。しかし縦走では無いし、ゆったりできるテントもありだ。山小屋の雰囲気は好きだが、おじさんたちと引っ付いて寝るのも、いびきに悩まされるのもキツイ。そしてテントは2つも持っている。ゆったり2〜3人用のダンロップ製と、1.5人用のICI(かIBS石井スポーツ製(久しぶりに名前を思い出した)と。ここはゆったりダンロップを持っていきたい。なぜならテントは室堂に張りっぱなしにし、空身で立山を縦走するから、重たくかさばるテントもなんとかなる。しかし、どう考えても息子に重い荷物は持たせられないので、シュラフ2個、テント、食料、着替え、などを持つのを大人一人で行わなければならない。息子はヘルメット、軽い食料、テント場用スリッパなどスカスカのものしか持たせられない(大きさだけは40Lほどのザックをしょってもらうことにした(本人の意思と希望により大型ザックを購入した))。

食料って、いまどきどんな物なんだろう。僕が登山をしていた頃(中学生から大学生まで)は、フリーズドライアルファ米が出てきた頃だったんだと思う。でもあまりそれらは使わずに、普通の米や野菜、レトルトカレーなどを持って行っていた(今思うとかなり重たそう・・・)。今回のために調べた道具本でも、アルファ米フリーズドライなどが主流で(亜流ではポテトチップスなど)、僕もそれにならい、尾西食品アルファ米アマノフーズのどんぶりとシチューをアマゾンで購入。あまりのスカスカ具合に「こんなで大丈夫なんか」と不安になるが、まぁなんとかなるだろう。行動食は入山前に富山で買う。

  僕は主要な道具なら持っているが、基本となるウェアが無い。伸縮性のあるパンツ、速乾性のあるシャツなどである。それらを一着ずつ購入し、それからトレッキングポールも買った。何しろ重い荷物を背負い慣れていない二人。少しでも肩の負担を減らしたいので、1セットだけ買った(片手だけでもあると楽、という話なので)。

主要な道具の中で不安だったのが20年の月日に伴う老朽化で、特にテントポールのゴム、靴底や靴紐に不安があった。テントポールのゴムは買ってみたもののなんとなくイケそうだったのと、ちぎれてもはめ込めばなんとかなることで補修せず行く。靴紐は縛ってみたところ頑丈そう、靴底はちょっとめくれが出ているが、なんとも判断できず、ガムテープを1m分持っていくことで剥がれた際に対処しようということにした。テント場での炊事用水入れは、ホームセンターで買った「破れない」というキャップ付き水タンク。

 

■第1日目(長崎→名古屋→富山)

8月2日朝、9時40分長崎発名古屋行きの飛行機に乗るために8時に家を出る。ほかの家族は見送りなんだか実家に帰るついでなんだか分からないが付いてきた。行く途中、本当は8時40分発なんじゃないかと不安になる。というのも手帳にそう書いてあったからだ。荷物から搭乗用バーコードを印刷した物を出してもらい、9時40分であることを確認してホッとする。

9時前に空港に着き、いつもしない預ける荷物のチェックに戸惑い、なぜかガスバーナーを取り出して火が付かないことチェックをさせられたりして、のんびりする時間も無く手荷物検査を抜け搭乗。息子は音楽聴いたり、着陸時の翼の動きを録画したり。

11時頃名古屋に着く。11時半に予約しているレンタカー屋に、昼ご飯食べるのでちょっと遅れると連絡しておこうとおもったら、荷物が重いのでもうレンタカーに乗せてしまうのが良いかもと思い、とりあえずレンタカーの手続きをして(空港島にあるタイムズレンタカー)荷物を乗せて身軽になって昼飯に戻る。商店街?にある入浴施設の食事処で、僕は味噌カツ丼、息子はお子様セット(おもちゃつき)。店から出てきたらホールのようなところでディズニーのイベントやってて3つほどの遊びをクリアしたりしていたらもう1時過ぎ。まあ今日は富山に行くだけだからと大目に見て、のんびり車に乗り込む。
そこからはずっと高速で知多半島を抜け名古屋市街を抜け、一宮のタケノコのようなタワーの脇を抜け(この辺りは高校まで過ごしたところ)、各務原から白川郷を抜け、一度「散居村」を見たかったので5時前に砺波ICで降り、見かけた散居村ミュージアムで展望台への道を聞き、展望台に上ったらば霞んだり遠かったり電線あったりでよく見えなかったが、息子は無料で双眼鏡見られて満足?のようで、まあとりあえず目的を果たし富山に向かうことに。水田の中を走りながら、たまに遠くに「かいにょ」を見たり、やたら多いお宮に信仰厚い土地柄を感じたりする。

富山大学の前を通り、神通川手前のアルビスというショッピングセンターで食材を買う。水筒を忘れたのでペットボトルで行くことにする。ほかに、行動食のカロリーメイトやソイバーなど数種類、チョコレート、サラミ、テント泊での朝食用のパン(息子の希望で朝はパン)、貴重な生野菜としてトマト(重たかった)、生じゃ無いけどコーン水煮パック(息子の希望)、贅沢品としてサバ缶など、大量に買う。ザックに入らないくらい買う。

7時前にはホテルに着いた。ホテルは「剱の湯 野乃」というところ。駐車場が無く近くのコインパーキングに停めたのだが、提携駐車場より安く、一晩7〜800円で済んだ。ホテルはロビーで靴を脱ぎ、館内は裸足(靴下)で移動するので子供には良かった。隣の居酒屋で息子と食事をし、僕はビールに日本酒まで飲んで、お会計は5,000円になった。食後には大浴場(やや熱め)に入り、出たら息子にテレビで「ナイトミュージアム2」を見せてるスキに最後の荷造りをし(箱を外したり、隙間に詰め込んだり、車に残していく物を選んだり)、「桃太郎」をだらだら話して寝かしつけたり。

■第2日目(富山→立山駅→室堂→雷鳥沢テント場)

暑かったり、子供がいびきをかいていたりで、おそらく2人ともよく寝られていない。6時に目を覚まし、荷物を車に運んでから、6時半オープンの朝食会場に向かう。「子供連れでは急いでも無駄」と考えているので、ゆっくり朝ご飯を食べ、ゆっくりトイレに入ってもらい、それでも7時半前には「鱒の寿し」を買うべくホテル近くの「まつ川本店」に入る。食べる時間を聞かれたので昼前に食べるつもりだと答え、もうちょっと遅めがお勧めと言われる。朝一に作った寿司とのこと。我が家でも実家でも、鱒のすしは大好物で、一度本場のものを食べてみたかったのだった。それを「山に入って最初のお弁当(弥陀ヶ原にて)にしよう」という黄金のセオリーに気付いたのは数日前だった。

富山市内から立山駅までは車で40分ほどで着いたが、すでに駅近くの駐車場は満車、というか一番遠いところしか空いていない。とりあえずそこに停め、登山靴に履き替え、10分ほど歩く。付いてみたら予定していたケーブルカーは満員で次の便に。それに乗って美女平まで付いたら、室堂直行便はあっても弥陀ヶ原に停まるのはしばらく後という。で、さっそくスコップスプーンを買う(黒部ダム建設の象徴としてのスコップの形をしたスプーンで、2年前に小さいものを買って下の子のお気に入りになり、今回はその大きなタイプを買ってくるのを楽しみにしていた、というか、子供にとってメインとも言える)。

バスは車酔いを心配していたが、下の子はまだ車で酔う年頃でも無いらしく、またバスも観光バスで、ゆっくり走ってくれるので気持ち悪くなることも無く、子供は途中からすやすや眠る。このまま室堂まで行ってしまえば楽なんだが、という思いが湧き上がってきたが、子供がすんなり起きたのでとりあえず弥陀ヶ原に降りてみる。空にはほどよく雲が浮かび、湿原は木道で歩きやすく、降りて良かった。とりあえず歩いてすぐのところで(ガキの広場)鱒の寿しを広げる。まだ11時前だ。逆さまに入れるのがこの店の流儀で、たしかに新しい感じもあるが、現地でしか味わえない新鮮さとも言える。魚の厚みがもっと有るかとおもったが、それほどではなく、やはりこれくらいがベストかと思う。息子は誕生日には「くら寿司」で炙りチーズサーモンばかり食べるくらいサケ好きなので、鱒の寿しもパクパク食べる(もう一つの好物であるピザにも似ている)。二人で1人前を平らげて、さぁ3時間ほど歩こうか(実は4時間)と誘うと何か渋って歩きたがらない。まぁこちらも本番は明日と考えているので、じゃ室堂に行っちゃおうということにする(夜、寝られていないことも不安要因)。バス停近くの小屋で、次のバスに乗りたいと伝え、バスを待っていると年配の女性ガイドさんが「すごいね」と息子に声を掛けてくれる。室堂にテントを張って、と言うと「室堂?雷鳥沢ね」とやんわり訂正される。今思えば確かに室堂ターミナルから雷鳥沢テント場まではかなり距離があった・・・。「やっぱり縦走するのが達成感がある」「ミクリが池温泉に入ってエンマ台でソフトクリームを食べる」「雷鳥見られると良いね」などのアドバイスをいただく。こういう風におだてていただくことで、息子も登る気力が維持できるのでは無いかと期待した。

弥陀ヶ原から室堂までは10分。室堂のすぐ手前で「雪の大谷はここだ」とのアナウンスが流れる。そうなのか、こんなに室堂近くなのか、てっきりバスに乗ってる間はずっとあんな雪の谷を走ると思っていた、と思いながら通り過ぎる。今はもちろん雪は残雪という程度のカタマリしかない。バスで針葉樹の林の中を走り続けて登山口まで行く感じが懐かしい。

さて室堂に着いた。2年前と比べてその景色は全く違う。こんなに見晴らしが良いとは・・・。立山を中心とした山々にぐるっと囲まれ、広々としたカール。しかし、室堂から歩き始めるとすぐに子供は疲れたと言い始める。ミクリが池辺りからは僕が息子のリュックも抱え、息子はポールだけが持ち物になる。息子のザックを超軽量にしておいてホント良かった。テント場が見えてからは、あと何歩で付くかを予想して気を紛らわせ、だましだましテント場に着く。すでにテント場は8割ほどが埋まっていたが、その後もう1割ほど増えただろうか。着いたらまず場所を確保しザックを置き、料金を支払いに行く。水が使い放題なのはありがたい。利用料も一人一泊500円というのは昔から変わらないな。荷札をテントに付けておくのも昔からあったなー。

申込みをしたらテントを張る。息子はテントの組み立てや、ペグの打ち込みをしてくれる。打ち込む石で指を潰してくれるなよ、と心配する。テントを建て、マットを敷くと、息子はサーマレストのエアクッションの方を使い、僕がロールタイプのを使うことに決まる。ロールの方は息子のためにサイズを短くしてきたのに・・・。まぁ僕はなんとでも成るのだ。足下なんてザックを敷いて寝るのがベテランという物だ、という気持ちで受け入れる。

登山靴からスリッパに履き替えて、ちょっと沢の水をさわりに行く。バンダナも持って、汗を拭き取りたい。息子はやはり雪に触れるのが楽しいらしい。足も水に浸けて疲れを取る(というほど歩いていないのだが、室堂から雷鳥沢までだらだら2時間も掛かった)。

花の写真を撮っていると、「花が好きですか」と声を掛けられる。最初「やばい、植物を踏んでしまって怒られるのか?」と思ったが、珍しい植物があると「タテヤマチングルマ」が咲いている場所に連れて行ってくれる。高山植物といえば7月のイメージで、8月に入るとチングルマもすでに花びらを落として綿毛だけの気がしていたが、今年は独特の気象のせいで、雪も花も遅くまで残っているとのことだ。赤い花弁のタテヤマチングルマ(露出を抑えると赤がきれいに写ると教えてくれた)の群落を見せてくれ、別の植物好きそうな人と、チングルマの語源について(「稚児の乗る車」である説や「稚児の持つ風車」である説など)議論していた。このお二人には、その後、一ノ越への行き方や(テント場の中心からは十字に道が出ており分かりにくい)、子供を連れてのルート選択などを相談させてもらい、一ノ越からのピストンや大走りからの登りなども検討してもらったが、一ノ越から北上し、辛くなったら大走りで下りる(辛くなければ剱御前小屋まで行く)案と、より簡単な大日三山方面の良さ(お花畑や稜線に出やすいこと、剱が見えること)も教えてもらった。その後、息子と相談し、大日三山方面に向かうことに決めた。僕的には、稜線に出ることを最優先にした。


夕食は5時頃に、お湯を沸かして米とシチューを戻し、コーンを乗せ、トマトをかじり、サバ缶も開けて食べる。息子は満腹になって寝てしまった。しかし1.5人用のテントなので、確かに僕と息子は1.5人程度なのだが、かなり狭い(1人でも狭く感じるくらいだから)。ヘルメットなどかさばる物もある。鍋や水タンクなど濡れても良いものはテントの外に出しておくが、食品はテントの中にと管理人に言われている。靴は濡れないように袋に入れて外に、などして、また、テントのタープと本体が接して水がしみてこないようにし(それでも床のビニールなどは塗れているんだか冷たいだけなのか分からないがじとっとしている)、一人だと退屈な入眠前の時間だが、もう一人居て、ぐっすり寝てくれるか不安で、自分のことなど考えていられない。そうこうしているうちに子供が起きて、星を見たりしていたが、急に寂しくなったのか泣き出して、二人だけで寝るのが寂しい、明日山梨の家に行きたいという、僕も窮屈なテントでもう一泊できるか不安なので、とりあえずそうしようということに決める。その後やはりぐだぐだと桃太郎を話して、いつのまにか二人とも寝ていた。

■第3日目(雷鳥沢→新室堂乗越(途中まで)→室堂→小淵沢

山の朝は寒い。というか夜から寒くてセーターを着て寝た。立山は東にそびえているので朝日が遅い(雲ノ平でテントを張ったときは、朝日の暖かさに感動したものだった)。朝は息子もご機嫌で、とりあえず牛乳を温める。温かい牛乳を飲みながらパンを食べ(息子はメロンパン)、僕はコーヒーも淹れ、トマトも食べる。

日が差してから、昨日の予定通り大日三山方面に登ることにする。さっそくそこそこの幅の渓流に掛かる木橋を渡らなくてはならない。手すりも無く、幅は1mも無く危ないのだが、息子はスイスイと渡ってくれる(2回目からは四つん這いになった)。右に行けば一ノ越、左に行けば剱御前小屋か大日三山に行く。大日三山方面はテント場からの進み具合も確認でき、花もきれいで、途中雪渓もあり、人もそこそこで、ペースもそれぞれで、その中でも僕ら親子はゆっくりと登っていったのだが、30分ほど登った雪渓で遊んだら、息子はもう下りると言い出す。

後になって思えば、ここでもう少し粘ってみれば良かったのかも知れないが、僕はあっけにとられながらも了承してしまい、結局木橋まで戻ってきてしまった。そこで石積みなどしておやつも食べたりしてから、「もう一度登ってみないか」と誘ってみた。下りる途中でも「今ならまだ登れるぞ」と誘ったりしたのだが、それでも下りると言って聞かなかったので、ここではちょっと真剣に、ここで帰っては山登りをしたと言えない、何のために道具をそろえて来たのか、と説いてみると、息子も真剣さが伝わったのか「登る」と言う。「絶対、気持ちが良いから」と鼓舞して再挑戦。しかし三度目の木道を這って進んだためか指にささくれが刺さったようで、渡ってしばらくのところで痛いと言い出す。救急セットに針が入っているが、セットはテントに置いてきてしまったので、ここから戻って棘抜いて、としていると今日中に小淵沢に着かなくなる・・・。というわけで登山はここであきらめて、一路テント場へ。管理小屋の脇の日陰で棘を抜き(皮膚を破るのに痛みもあっただろうが息子は何も声を上げなかった)、管理人に利用料を1泊分返金してもらえないか相談に行き(返してもらえた)、テントをたたみ、写真を撮ったり撮られたり、乾かしているテントが風で転がっていくのを捕まえたりして、下山の準備は完了。

雷鳥沢から室堂まではやや登りで、またもだましだまし息子を歩かせ(今度はソフトクリームで釣る)、急登の後にある雷鳥荘でかき氷を食べ、昨日は火山ガスで目や喉がやられそうなくらいだった地獄谷が今日は風向きが良く風光明媚で、最後の最後で僕の靴の底がめくれて靴紐でつなぎ止める羽目になり(持ってきたガムテープはテント場を発つ際に、立山を目指すグループの1人の靴底が剥がれたのであげてしまった)、それでも12時過ぎにターミナルに着き、インスタントラーメンを食べ、1時半頃の臨時バスに飛び乗り、ケーブルカーを乗り継いで息子は駅前で待たせておいて車を取りに行き、そそくさと山を去る。

その後、僕の両親が住む小淵沢に向かい、夕方6時頃には諏訪湖SAで温泉にも入り、晩ご飯も食べ、8時に家に着いた。息子はさっそくババ抜きをした。

■第4日目(小淵沢佐久平北陸新幹線上越新幹線佐久平小淵沢

本当はこの日の朝、テント場を発ち、7時のバスで室堂を発つ予定だったが、息子の足では予定通りの歩行は無理だっただろうなぁ。そして出発前に一番心配していたのは、立山駅から3時間ほどで佐久平の新幹線駅に行けるかどうかだったが、今思うとその時間で着くのも無理だったろう。そう考えると前の日に下りてきたのは正解だった。

なんのために新幹線駅に行くかというと、2年前に東京駅で見た2階建て新幹線(上越新幹線を走るMaxとき・たにがわ)がその2年後(つまり今年)には運行停止という情報を聞き、そのときに「絶対乗ろう」と息子と約束していたからだ。だからこの山行のついでになんとか上越新幹線に乗りたかったのだ(実は運行期間は延長されている)。そんな心配だらけの第4日目だったが、一日早く下山したおかげ?でのんびり新幹線駅に向かうことが可能になった。9時に家を出て、1時間半ほどかけて佐久平に向かい、駅前のイオンのサイゼリヤでピザを食べ、自由席で北陸新幹線に乗る。ぎりぎり席に座れる。続いて高崎で上越新幹線に乗り換える。高崎、暑い。Maxときも、自由席で狙ってみる。残念ながら窓際は空いていなかったが、3人掛けの2席に座る。はっきり言って息子には、車窓の風景などどうでも良くて、新幹線を外側から見ることと、その新幹線に乗り込むこと、2階建て新幹線なら階段を上り下りすることが楽しいのであって、イスに座れさえすれば窓際で無くても文句無いのだ(ということにする)。この時間のMaxはとき・たにがわが連結しており、高崎で入ってくるときも連結場所が見える場所で張って写真を撮ったが、越後湯沢では切り離しをするのでそれも見る。子供も数人集まってきたが、実は親も見てみたい&子供に見せたい気持ちで興奮気味な感じ。越後湯沢は避暑地かと思いきや暑い!駅から出て散策することも無く、構内のお土産を見て(息子は大きな水鉄砲を買いたがったら思いとどまらせる)、ジェラートを食べ、帰りのMaxは始発なので30分前にホームに出てかならず座れるよう準備したが、出発時もガラガラで、先頭車両1階などは僕ら以外誰も居らず「貸し切り」だった。佐久平に着いたのは17:20で、小淵沢の家には7時に着くと言ってあるので(実家は5時頃に夕食を取っているらしい)、かなりそわそわしてなんとか7時に到着。またババ抜きをする。

■第5日目(小淵沢→名古屋→長崎)

今日は帰るだけ。12時前まで家の近くの神社の公園で遊んだりしてのんびりした後、駒ヶ根SAでソースカツサンドピノを食べ(とヒヨコのクレーンゲーム)、恵那山SAで水を買い、16時ごろには空港に。ボーイング787初号機が飾られている「Flight of Dreams」に行こうとしたが料金が高くて断念(食事だけでも良かったかも)。富山で買ったガス管をここまで持ってきてしまったので、飛行機に乗せることはできず、登山靴と一緒に発送することにしたら、重たいせいか2000円もした。ガス缶なんて安いのに・・・。またディズニーのイベントをして、お弁当を買って、息子はブルーインパルスのおもちゃを買って、搭乗ゲートに行き、唐揚げ食べながら、僕は生ビールを飲む。この生ビール、乗ってからイスに少しこぼしてしまい(息子がぶつけた)CAさんにはとても親切にしてもらった。

〜まとめ〜 

結果的には「立山登山」ではなく「室堂散策」になった今回の旅行。靴擦れも怪我も無く(僕の子供のころの登山ではすぐに靴擦れが起こって辛かった)、腰痛とかの痛みに苛まれることも無く下山できたのは何よりだし、これならもうちょっと行けるかもと僕が思えたことも収穫だった。息子がどう感じたかは現時点ではナゾで、山のキレイさや辛さをひっくるめて、また登りたいと思うのか、もうこりごりと思うのか(現時点ではコリゴリが大きいと思うし、ちゃんと歩いてくれないなら連れても行けない)楽しみであり不安でもある。いろんな人に声を掛けてもらい、またすれ違う人とは挨拶をし、「違う世界」があることを見せられたのは良かったことなんじゃ無いかと思う。

そういえば、今回の山行では、僕自身の山の感じ方が、20年前と40歳過ぎの今とで、どう変わったかを知りたいという気持ちもあった。20年前はやはりピークに到達のが楽しみだったし、そこまでの道のりは苦行でもあるし、下界から離れて寂しさや不安も感じたりした(とくに単独行では)。今回はどうだったかというと、登山中ははっきり言って子供の世話で必死だったので考える暇も無かったが、今思うとやはり360度の展望、自然の気持ちよさ!人工物は山小屋程度(室堂はたくさん建っているが)。いや、人工物は山小屋だけっていうのがまた、そうか人が山を行くには、道と山小屋があれば良いんだ、と思わせてくれるし、またむき出しの地面に立つ小屋が可愛くもある。また、歩き方は行く前から言い聞かせていたように「ゆっくり、息を切らさないように」を息子も守って、走っては休む、というような登り方はしなかった。さらに親はいざという時に子供を背負って行けるくらい体力と気力を保持しなければならない。しかし山道を歩くのは一歩ごとにパノラマが変化し、アップダウンも楽しく(室堂から雷鳥沢間ではほぼ整備された通路だが)、植物、岩、空、雲、池、雪が作る多様な視野、近くから遠くまでが繋がっている、歩いて行ける感じ、そして、歩く以外に仕事が無いという状況もシンプルで良い。山に行く前は活動をやめる2時ごろからどうやって時間を潰すんだろう、と不安だったりしたが、テント周りの整理をしたり、ぶらぶら散策したりで2人とも退屈はしなかった。

最大の反省点は、8月最初の土日に日程を組んでしまったこと。平日にすべきだった!また、僕自身が山らしい山を初めて経験したのも木曽駒(正確には千畳敷カールと宝剣岳)だったので、立山の対抗馬として木曽駒も考えていたが、立山に登れなかった今思えば、木曽駒の方が良かったのかも知れない。テントはやや運びにくいが、名古屋から近いことも、今後の判断材料になるだろう。

また、山で大変なのは、登山口から登って下りることでは無く、計画、準備、アプローチだということも実感した。日程、ルート、交通機関の時間、道具のチェックなど、子供の頃は全部父親任せだった(そのうち、ルート決めや道具のチェックはするようになったが)。バスに乗る、電車に乗るなど、言われるままに連いて行くのと、時間を気にして連れていくのとでは、負担が全然違う・・・。

いきなり自転車ブーム

ゴールデンウィークにいきなり自転車に乗れるようになった3人の子供たち。

 

遊びに来た下の子(小2男子)の友達が「先週の水曜日に乗れるようになった」とかいって、下の子の気持ちに火が付いたのか、あるいは脚力がようやくペダルを押す力に到達したのか、とにかくちょっと公園に行って練習しただけで、あまり支えないでも乗れるようになったが、まだまだスタートとかは後ろから肩を支えるし、乗ってる最中もたまに大きくぐらつくので、目が離せない。

 

そんな日の夕方に他の家族が帰ってきて、下の子が「乗れるようになったよ」とどこまで本気か分からないけど、「まだだろう」と内心思いながら、乗る様子を見ていると、かろうじてこぎ出しもうまく行き、とりあえずは転ばずにフラフラと運転することができて、家族から拍手喝采される。

 

それで、それまであまり練習もしなかった上の子たち(小6女子、2名)もやる気になって、20インチか18インチの自転車をキコキコして、下の子は自慢げに教えたりしながら、なぜか三人とも乗れるようになった。

 

こどもの日には下の子に20インチの自転車を買ってやり、先週末には24インチのを一台買って、大人&上の子用(一人分しか無いが)とした。